河内音頭 山昌会
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河内音頭とは
河内音頭とは大阪府下北 - 中河内地域を発祥とする伝統的な河内音頭と、その音頭をアレンジさせた、近代・現代河内音頭のことを指していいます。
大阪では河内地域以外でも盛んに盆踊りなどで踊られ、その曲目は全国的に愛聴されています。
河内音頭の歴史
江戸期
から北河内交野地区、中河内八尾周辺、また南河内でも、それぞれ歌われていた土着の音頭・民謡、浄瑠璃、祭文といった庶民の芸能と仏教の声明が長い時間をかけて混ざり合い改良されて成立したと言われています。
盂蘭盆会、地蔵盆の時期に盆踊り歌として歌われていますが、元来は亡くなった人々の魂の鎮魂歌で、現世に回帰した際の霊魂をもてなす意味が含まれており、仏教とは切っても切れない経緯があります。伝統的な祭文音頭と、今日一般的に知れ渡れるようになった、現代の河内音頭と呼ばれる音頭は節回し(曲調)が大きく異なっています。
明治初期
からに北河内一円で活躍した『初代歌亀』(生没年不詳 河内国野口村-現在の大阪府門真市出身、本名中脇久七)を名乗る音頭取りが、西洋音階が本格的に日本に入る10数年前にそれまで短調(minor)で唄われていた音頭を偶然長調(major)で唄いだしたのが現在の河内音頭の原型だとされており、成立は明治中期と推定されていますが、はっきりしたことは不明です。
大正末期頃
まで近畿地域で盛んに歌われ踊られていたのは、滋賀の東近江(八日市)発祥の音頭である江州音頭や、伊勢の伊勢音頭でした。そして江州音頭は明治中期頃に千日前界隈の寄席では落語や音曲と並んで人気の演目とななりました。
大正中期
には平野節の初音家太三郎(初音家初代宗家)が登場し、従来唄われてきた河内音頭を大幅にアレンジし、現在に繋がる節回しやお囃子が誕生しました。この太三郎の編み出した、新しい河内音頭も寄席の演目として人気を博すようになりました。
寄席小屋で興行として演じられる様になると、益々江州音頭や浪曲などの諸芸と融合・影響を受け、河内音頭が飛躍的に変革・発展を遂げていきます。
昭和中期頃
までは河内音頭は衰退の時代が続いていましたが、1961年にテイチクから発売された鉄砲光三郎の『鉄砲節河内音頭シリーズ』(編曲和田香苗)が累計出荷数100万枚を超える大ヒットとなり、全国的にその知名度を広げます。
昭和40年代頃
には、太三郎の弟子である初音家賢次(1930-2000 初音家二代目宗家 中村美律子の師匠)や、天狗連上がりの三音家浅丸(1938-1981)といった音頭取りが活躍し、「初音節」、「浅丸節」という音頭取りの名を冠した独特のリズム=節の河内音頭が生まれました。
現在
でもプロ、セミプロ、アマチュアを含めて音頭取りは大阪には多数存在し、○○会という音頭取りの所属するグループが関西圏内に約100会派1000人近くいるますが、その内訳は古くから音頭を伝えている音頭各会派で修行し、独立して一派を構えた者が主宰する会派が大半で、家族規模から弟子数十人を抱える会派まで様々であり、いくつかの兄弟、親戚弟子の連合チームで櫓興業を打つ事が多いようです。
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歌詞(芸題=下題=ネタ)や節は基本的な決まりがあるますが、同じ演目でも各会派によって違います。
使われる楽器は、三味線、太鼓、エレキギターやキーボードなどバラエティーに富んでいますが、これは、鉄砲光三郎の編曲者である作曲家、ギタリストの和田香苗の代表作で『会津の小鉄』-初代京山幸枝若、「アクビ娘」、『紅三四郎』- 堀江美都子)の功績だという説もあり、イントロは浪曲の曲師出身で宮川左近ショーで活躍した暁照夫(暁照夫・光夫)の作曲です。
演奏時の原則は三味線のリフをエレキギターに置き換えて手数を増やして弾くようになりました。
大阪市内の旧平野郷は河内の国ではなく摂津国に属していましたが、初音家一門の音頭の発祥の地であるため、平野区内にある平野公園の中には近代河内音頭の発祥の地の石碑があります。また、八尾市にある常光寺の境内にも、流し節正調河内音頭の発祥の地の石碑があります。
ウィキペディアより